博報堂を辞めました。


 

 

このタイトルは、本質的ではありません。

 

なぜなら辞めたことに価値はないし、辞めるというチョイスが先にあったわけではないからです。ただ、一番分かりやすい事実の伝え方であると思ったので、このようにしました。

 

中身としては、辞めた理由を含め、ここ最近の僕の思考をまとめてあります。ただ、偏った個人的意見に基づくものなので、万が一、気分が悪くなったら、×ボタンで閉じてください。

 

 

最初に断っておくと、僕は博報堂が好きです。

その気持ちは今も変わりません。一年目からインタラクティブプランナーという最もホットでエキサイティングな職種、しかも上司に恵まれ、大きな裁量の下で色々と企画・実行させていただき、貴重な時間を経験することができました。どこまで会社にバリューを出せたかはわかりませんが、僕としては本当に感謝しています。心から。

 

 

じゃあ、なぜ辞めたのか。みんなに聞かれます。

それはそうでしょう、エリート街道を自ら飛び降りたのですから。

 

理由を一言で言うのは正直難しいですが、言うとすれば「生きる」ということを僕なりに見つめたいと思ったからです。

 

 

これを説明するのは簡単ではありません。いや、できるかもしれないけど、ちゃんと誤解の無いように、想いが伝わるように、文脈とともに伝えておきたいので、「そもそも」の話から始めたいと思います。

 

 

 

□僕はいったい誰で、誰にコミットしたいのか。

 


僕が人生でちゃんと物事を考え始めるようになったのは、大学の頃からです。大学一年までクソな生活を送っていた僕は、早稲田大学繊維研究会(Sen-i)という場所で、服作りを通じて「デザイン」なるものと出逢いました。

 

 

それは衝撃的な出逢いであり、僕はすぐに魅了されました。

 

『サクラグラスから学ぶ、デザインの姿』でも書きましたが、日常の中に「より豊かな体験をつくる」ために、それを人のどんな行為・インサイトに対して、どのようにカタチにすれば実現するのか。そういうことをひたすらに見つめていました。そこで僕はインタラクティブであることの重要性も学びました。細かいことはここで記しませんが、とにかく最高の時間でした。

 

3年間でかたどられた僕の思想は、デザインという考え方を通じて、どんなワクワクするライフスタイルを生み出せるか、価値として提供できるか、そういうことだと後になって気づくのです。

 

 

ただ一方で、悔しいこともありました。

 

それは、自分たちのコンセプトや取り組みを世の中に知ってもらえなかったことです。伝えることが重要なのではなく、伝わることがまずは重要なんだってことを、身をもって知りました。

 

そういう、まぁ大変に分かりやすいところから、広告業界に興味を持ち始めました。意外かもしれませんが、一ミリも就職を考えてなかった僕は、友達に半ば騙されて連れていかれた合同説明会的なもので、初めて博報堂という企業を知ったのです。大学3年の夏くらいでした。就活をちゃんと始めたのは、最後のファッションショーが終わった12月の頭くらいからでした。

 

それをきっかけにして、僕は運良く博報堂に入社しました。そして運良く、第一志望のインタラクティブプランナーになりました。インタラクティブなコミュニケーションを通じて、大きなスケールの中で、人々のライフスタイルをデザインできると思っていました。具体的には書けないですが、先進的なプロジェクトのディレクションに携わるなど、扱うコミュニケーションの大きさに興奮していました。

 

ただ、その間、世の中はすごい勢いで変化していました。ソーシャルメディアなるものが生活に浸透し、いままでメディアと呼ばれていたものとは性質の異なるメディアが生まれたのです。個の時代の到来です。

 

もちろん僕の下にも、そういうソーシャル系の仕事はたくさん来ました。一番のソーシャルネイティブであったこともあり、バリューを発揮しやすかったので。

ただ、その変化に広告は対応することしかできないことに気づきました。それは当たり前です。あんなにいい給料をもらって、それに見合うスケールでやろうとすると、マーケットの成熟は必要条件だったからです。ちゃんとお金として儲かることでないとダメなんです。数字が重宝される理由です。

 

次第に、僕は違和感を持ち始めました。根本的な変化の中で、表面を追いかけてばかりの業界の思考に。(その中でも博報堂は、本質的なことを見つめようとしている会社だとは思いますが)

 

もっと根っこの部分、価値観や生き方そのものが多様化し始めた、この時代にコントロールや数字を前提としたコミュニケーションなんて、何が楽しいのだろうか。発見よりもリスク無いことが価値なのか?そんな風に感じていました。

 

そのとき、ちょうど博報堂で、とある新規ベンチャープログラムが発足しました。これはチャンスだと確信し、僕は同期である田和と応募しました。内容は、ほんとざっくり言うならば、ちゃんと想いを届けるインフラをつくることで、人の死後=第二の人生をデザインするサービスでした。今後、世の中や生活者にとって必要となるサービスであることは明確でした。だって、あったほうが絶対に素敵な世の中になるのですから。

ありがたいことに審査員だった優秀な先輩方も大変に共感してくださいました。ただ、キャッシュが先に入ってくるビジネスモデルの広告代理店の中では、「いまマーケットが無い=リスクである」という認識で落ちてしまった。最後の最後までは残りましたが。もちろん他の意見などもあるとは思いますが、少なくとも僕の認識はそうでした。

 

僕の中で、代理店ビジネスの限界を感じました。

 

この変化の多い世の中において、生活者の体験ドリヴンなライフスタイルの提案など、代理ビジネスの枠組みの中では、本質的に成立しないのだと思いました。

 

 

ただ、それは僕の思考の浅はかさが原因です。

 

つまり、「ライフスタイルをデザインする」とかカッコいいことを言っていたけど、それを誰に提供するのか、ちゃんと見つめていなかったのです。

 

ちょっと話が複雑になっちゃうかもしれないけど、僕は箭内道彦さんが好きです。理由はシンプルです。素敵だと思ったことを素直にやるから。あの人は、広告は応援だ、だから自分が好きなことしか広告しない。マーケティングなんかしないんだ、とおっしゃられています。なぜなら自分がそのターゲットだからね、って。本質的な姿勢だと思いました。そんな風に考えているから「No music, No life」とか「Photo is」とかを生み出すことができたんでしょう。

 

 

僕のアウトプットの対象のペルソナもきっと、僕です。

じゃないと本当のところが分からないし、想いもシンクロしないから。

 

そう考えた時に「ライフスタイルをデザインする」対象は、きっとマスではなかったのです。むしろ今の自分に近い人々だった。もう一般常識で動くマスを超えて、もっと自分なりの思想を大切にしてマイクロな動きをしながら生きている人。だからリアリティをもって、その新規事業をやりたいと思った。それはきっと「有名人がCMに出て商品が売れる」という短絡的な現象とは程遠いもので、代理店のマーケティングではこぼれてしまうものなのです。

 

目指すべき道を考える時、「何をするのか」「どのようにするのか」を考えることはよくあります。ただ、意外と重要なのは「誰と」そして「誰に」だと思い始めました。なぜなら、それが僕のコミュニケーションの相手だから。「誰と」はよく大事って言われます。ただ、今は誰が発信して、誰が受けるとか境界線が無い時代です。もはや、コミュニケーションという意味では同じ密度なんです。

 

 

だから僕はこの人に共感する、もしくはこの人のことだったら気持ちがわかる、そういう人たちに対して、全力でコミュニケーションしていきたい。双方向に、インタラクティブに。深さで言うと、ライフスタイルのデザイン、さらには人生にコミットできるくらいに。

 

そういう意味で言うと、僕は、いわゆる属性マトリックスできったような顔の見えない何百万人にコミットできるほど、バランスのとれた人間ではなかったということです。大きな海を見渡すよりも、狭くても深い海に飛び込む方が合っていたんです。

 

 

 

□高木新平として、生きるということ。

 

 

とにかくその新規事業失敗は3月でした。そして、休むことなく、日本は3.11というものに出逢ってしまいました。決して、ハッピーな出逢いではなかった。凄まじい出来事でした。

 

僕も何かしなければ、そう思って僕は、協力メンバーとともに「3.11 Memorial」というサイトを作りました。

 

http://www.311memorial.com/

 

 

これは、見てもらうとわかるように、被災して亡くなった人々の人生を残すためのサイトです。当時、ニュースで亡くなった人が数千、数万と数字でしかカウントされない状況にどこか違和感を感じました。新規事業立案で、人の「死」を見つめていたこともあったのだと思いますが、ちゃんとストーリーとして人生を残すことが、残された人々にとっても大切なことなのではないかと思ったのです。多くの人が倒壊した家でアルバムや日記を探してる様子や、北野たけしの言葉をみて、必要なことだと確信しました。

 

 

 

ただ、このサイトをもってGWに東北を訪れると、早すぎることを知りました。まだ仮設住宅にも移っておらず、それどころではない、そんな感じでした。僕は焦りました。なぜなら、東京の関心が急速になくなっていくのを感じていたからです。こういう取り組みは日本全体で矢印を向けないとなかなか難しい。

 

東京に帰って、博報堂内の掲示板で相談を投げかけました。どのようにPRをしていけば、被災者の気持ちに沿うカタチで、世の中の関心を集めて、良い方向にコミュニケ−ションできるかと。

 

明確な答えはいただけることなく(いや当たり前ですが)、まぁさほどみんな関心もないようでした。僕にはPray for Japanのパクリ広告とかを制作することよりもよっぽど大切なことに思えました。しかし最終的に、関心を持たれたのは広報局であり、「会社としてリスクだから、そのサイトを停止するように」と言われてしまいました。

 

何がリスクなのか?役割がリスクの芽をつぶすことだと分かっていながらも、僕には理解不能でした。もちろん、被災者の方々の状況にそぐわないことをするのは違うと思っていたから、一度もツイートさえしていなかった。それに僕は博報堂としてではなく、高木新平という個人としてその制作に取り組んだのです。

 

確かにFacebookの職業の欄には博報堂と書いていました。でも、高木新平=博報堂の人間ではありません。僕の人生の中に、たまたま博報堂という会社で働く機会があっただけです。そこで収まりきらない部分も沢山あります。個がメディアとして情報をつなぎ合う時代に、大企業の「個を押さえつけるマネジメント」は不自由以外何者でもないと思ってしまったのです。

 

きっと、この時点で、僕は「サラリーマン」失格だったんだと思います。

 

いいコミュニケーションをつくりだして博報堂のバリューを高めたい、尊敬する先輩方の期待に応えたいとは思っていたけれど、会社のために自分の想いを全て抑えるなどという気持ちは微塵もなかったのですから。

 

最終的には、理解ある上司が間に入って調整してくださいましたが、僕の気持ちには大きな変化がありました。と同時に、関わる人々の気持ちの理解がちゃんとできていなかった3.11Memorialは、悩んだ挙げ句、当分何も手に付けないことにしたのです。

 

新規事業の提案棄却、3.11Memorial停止命令は、そして震災とともに世の中の価値観が大きく変化したことは、僕の考えを決定的なものにしました。

 

 

本当に、いまこそライフスタイル、もっと言えば生き方というものが揺らいでいる。

 

そのときに自分は何をしたいだろうか。

 

僕は、僕の素敵だと思えることをしたい。

 

 

「仕事」というものが人生で最もリソースを割いて、世の中に何かバリューを生み出そうとする活動であるならば、僕は高木新平としての「思想」を持ってそれを全うしたいです。

 

規模は問わないし、具体的なアクションとして何をやるかもさほど重要ではないです。ただ、この姿勢は大切にしたい。思想を共感し合える人と、自分自身リスクテイクしながら、誰かの「生き方」に携わることがしたい。責任もってやる以上は、気持ちが共有できない人を対象に何かやるというのはどこか違う。そんなことをなんとなくだけど、強く思いました。

 

こんなこと、大企業では通用しないでしょう。なぜならペイできないからです。だから僕はこれ以上居ても、ビジネス的にはネガティブな存在でしかないと思い、辞めようと思いました。個人的にいうと、会社としての目的と僕のモチベーションが乖離してしまったということです。

 

 

僕はワクワクしてないと、笑顔もできない不器用な人間なんです。

 

 

 

□アウトプットの前に、大事なこと。

 

 

それと時を少し重ねるカタチで、僕には素敵な出逢いがありました。

 

色々と一緒にやっていた田和から紹介され、いま一緒に仕事をしている宮下です。彼は外資メーカーに所属しながら、人材関係のビジネスをやっていました。最初は企画側でアイデアを出すくらいだったけど、自然とその頻度は高まりました。それは僕にとって、学びの連続だったからです。

 

何を学んだかと聞かれると、正直うまく答えるのは難しいです。それは表面的に言えるようなスキルとかではないから。なんか、もっと人間的で、本質的なこと。

 

彼はビジネスマンとしても非常に優秀ですが、本当に素晴らしいのは人との付き合い方。その人材ビジネスも、彼が関わった人たちに対して、本気で向き合い続けた結果、カタチになった産物です。本当は詳しく書き綴りたいけど、あまりに長くなってしまいそうなので、やめておきます。

 

とにかく、宮下は関わった人に対して「成長」をもたらすことに責任を感じていました。謎なくらいに、ひとり一人の未来にコミットしていました。なんかその姿勢が僕にとっては、少し忘れかけていた、とても大事なことのように思えたのです。

 

実際のところ、代理店に入ってからは、相手のことをちゃんと見つめたコミュニケーションを忘れかけていました。もちろん、クライアントやユーザーのことを考えるのは上手になったけれど、一緒につくる人たち(ここでは主に制作会社やフリーランサーの方々)のことは正直考えなくなっていた。思い切った言い方をするならば、つくるために必要な手足としてしか捉えていなかったのです。

 

なんとなく違和感は感じていました。

 

ウェブの制作会社の人たちの方がウェブだけに関して言えば、きっと想いもスキルもある。でも彼らがよりパフォーマンスできるようにすることなんて誰も考えていない。それが当たり前、制作会社の人たちももはや受け身で、そういう関係性がお金という魔法にごまかされたのか、ごく普通のこととして成立していました。

 

それってなんか違うよね?っていうモヤモヤに対して、宮下の言動は明確に答えているように思えた。いや今になって思えば、全ての答えじゃないことは分かっているけれど、僕が理想とするアウトプット環境である、「ひとり一人が持つクリエイティビティの掛け算」なるもののヒントがあることは事実だと思いましたし、それこそがコミュニケーションだと思いました。

 

それは、いま一緒に仕事をしている&「よるヒルズ」というシェアハウスに一緒に住んでいる村上から学んだことでもあります。目指すべきアウトプットをつくることなんかより、そこに関わる人がイキイキとやれていることのほうが重要だとサラッと教えてくれました。彼はひとり一人のモチベーションを大切にします。

 

僕は、昔から厳しいフィードバックは得意でしたし、歩むべき道はどちらかというような相談を後輩から受けることも沢山ありました。ただ、心の相談を受けたことはほとんどなかったのは、そういう配慮とも言えることが欠如していたからなんだと学びました。そして、それでは本当の信頼関係なんて作れないし、クリエイティブな活動なんてできやしないことに気づきました。

 

(クライアントの課題解決に貢献することは前提とすれば)ビジネス的な細かいことも、面倒な関わる人のメンタル部分のことも気にせずに、自分が思いついたものを手足となって作ってくれる環境が揃っていて、ドヤ顔できる代理店のクリエイティブ職は僕の天職だったと思います。もちろん、みんながみんなそういう意識ではないかもしれませんが、僕はそう捉えていました。

 

 

でも、生き方とかそういうもっと根本的なところを見つめるべき今、アウトプットの部分だけじゃなくて、関わる人の想いやそこにかける時間、大げさに言ってしまえばその人生にもちゃんとコミットしないと本質的なことなど生まれないと思いました。誰に?のところとも重なるけれど、僕自身もスケールすることより、その質をちゃんと追い求めることが幸せなのだと実感しました。

 

宮下や村上とも良く話をするけれど、ベンチャー企業や個でやっていることとかって、やることのデザインなんかより、人間関係のデザインにクソ時間とられるし、プライオリティが高いんです。それは個々の想いがダイレクトにぶつかり合うから。その分、なんか生きる力を手に入れている気がするし、経験としても、とても本質的なことを学んでいる気がする。

 

そんな風に、いまの時間を感じています。

 

 

 

□これからのこと。

 

 

整理もせずに書き始めたら、とてつもない文量になってしまったので、そろそろまとめとして、これからについて書きたいと思います。

 

改めてですが、今は「生き方」が生まれ変わる時代だと感じています。

 

メディアの発達も、震災における価値観の変化も、本質的な部分で「これから」をゼロから変えようとしている。その中で、僕は、自分が気持ちをシンクロさせる人とコミュニケーションしながら、「これから」の部分を丁寧に見つめていきたい。

 

 

具体的に言うと、

 

1つ目として、まだ全然思想を反映できていないけれど、宮下が代表をしているトライフを一緒にやりながら、「働く」の新しいカタチを見つけていきたい。上にも記したように、「働く」というのは、どう生きるかに近いと思います。意義も形態も大きく変わっていくに違いないでしょう。だから、それを追い求めて、ひとり一人がよりイキイキと活動できるようになったらいいなって思ってます。(現実的にはこれがダントツでリソース食っているのが現状で、ベンチャーをやるって大変だなと実感中です。。)

 

2つ目としては、田和たちとやっている、博報堂で失敗した「死」のサービスを世の中で機能させたい。自分の体験からも「死」ほど人生が集約されたエモーショナルな時間はないと思う。僕が考える、素敵な未来を追いかけて、丁寧にやっていきたいと思います。(3.11Memorialもどこかで使われ、価値の出せるものに変えていきたいと思っています)

 

そして3つ目としては、いま住んでいる六本木のシェアハウス「よるヒルズ」をはじめ、自分自身が実験台となって、新しい生き方を開発していけたらいいなって思っています。僕はお金に興味がないので、お金を稼ぐっていうよくわかんないことしなくても、幸せに生きていけるってことも証明していきたいです。生活することが思想にリンクするような、素敵なライフスタイルを目指していきたいです。だからトライフでも、基本的に給料とかもらってないわけで。

 

+αで、ありがたいことに色んな仕事的なお話をいただくので、思想に共感できたり、お世話になった人やものに関われることであれば受けるようにしています。元上司とのメディア開発や、学校のブランディング、ストリートブランドのプロモーションとかとか。最近リソースがなくなってきて、上の3つの柱に集中できなくなってきたので、一旦ストップかけましたが。

 

 

そんな感じで、幸せなことに、退屈を感じない愉快な日々を送っています。自分のやることに責任をもてる、思想ある働き方ができています。コミュニケーションの濃度が高まっています。そして、それが「ライフスタイルをデザインする」ってところまで、社会への価値還元になっていけばいいなって思っています。

 

 

僕は、本当にいい出逢いに恵まれました。デザインへの向き合い方を教えてくださった繊維研究会の先輩方、メンバー。博報堂時代の同期として、僕に色んな出逢いを作りだしてくれた田和。子供のような僕の思考を理解し、認めてくださった博報堂の尊敬できる先輩方。そして、人との付き合い方を本質的に教えてくれた宮下。いま最も感覚を共有し合い、互いにおもしろい生き方を追求している村上。もちろん文脈上、ここに挙げていないけど、大きなきっかけをくださった方は他にも沢山います。(一部実名を出したのは、僕が好きで尊敬できる身近な奴らだからこそ、みんなに知ってもらいたくて、です。)

 

だから僕も、僕の関わる人たち、想いを共にする人たちの人生に対して、少しでも価値を出せたらいいな。結局、それが人生における一番のアウトプットだと思うから。回り回って、結論はそんなところにたどり着くわけです。伝わったかな。

 

 

 

最近まわりから、太った、老けたと言われますが、まだ23歳。

 

いい感じに未来が予想できません。

 

 

これからも末永く、宜しくお願い致します。

 

 

 

 

※今回のエントリ、素直に書かないと思考の経過を伝えきれないと思ったので、臆せずに全てを書きました。コンプライアンスに触れるところまでは具体的に書いていないですが、博報堂の広報からすると、ネガティブな側面もあって、消したいと思うかもしれません。いや、でも僕は本質的に博報堂のことは好きです。広告という仕事も好きです。だから、いま中にいる人じゃこんなこと絶対言えないだろうから、僕が感じたことをちゃんと言っておきたいんです。社員の方々も、これから入社するかもしれない学生も、制作会社など関わる人々にも、何か感じられるものが少なからずあるだろうから。いつもクライアントに「クチコミ」は操作するものではなく、受け入れるものだって言っているのと本質的には同じです。だから、このニートの振り返りを理解して受け止めていただけると幸いです。

 

 


About Shimpe1

高木 新平 (Takagi Shimpei) Facebook: http://www.facebook.com/takagi.shimpei Twitter: @shimpe1 (http://twitter.com/#!/Shimpe1)